反町遺跡は、弥生時代から古墳、奈良、平安、鎌倉、室町時代にいたる遺構や土器、木器などが数多く発見されています。
中でも今回は、古墳時代前期の集落跡と大溝跡を調査しています。特に、集落の一画からは、水晶(すいしょう)と 碧玉(へきぎょく)を加工して玉を作った工房跡を発見しました。さらに、この工房跡から出た水晶や碧玉のかけらを 土器と一緒に捨てた捨て場遺構も検出されました。
これらの水晶と碧玉は、当時の人々にとって大変貴重なもので、装身具、副葬品、祭祀具として使われ、本遺跡にこれらの石製品を作る工人が住んで いたことがわかりました。
水晶の原産地は、遠く離れた山梨県甲州市(旧塩山市)玉宮地域の竹森鉱山などで採掘されたものと同じです。また、碧玉は遺跡近隣の東松山市 葛袋地区などから採取されたものと考えられます。
遺跡全景(航空写真)
調査風景
発見された水晶と碧玉
出土状況(左手前が水晶)
出土状況
大溝跡から土器が出土
大溝跡調査風景
第48号溝跡調査風景
多量の水晶・碧玉片を出土した工房跡
製作途上の水晶片が、まとまって出土しました。
反町遺跡第36号溝跡は幅40m以上の特別に大きな溝跡で、その昔、都幾川が流れた跡とも考えられます。 北側の川岸には須恵器の坏7個・椀2個、小型の細頸壺(長頸瓶)が1個、合わせて10個の土器が1~1.5m くらいの間隔で並べてあり、椀の内側には「神矢」、坏1個の裏面(底)には「弓」と墨で書かれていました。
「神矢」墨書土器
川の中を発掘すると、先が二股に分かれた「雁股鏃(かりまたぞく)」が3点、 竹で編んだ「六つ目籠(むつめかご)」が1つみつかりました。
雁股鏃は、本来狩猟用ですが、おまつりや儀礼によく使われるものです。籠も直径1.5mと、とて も大きなものです。これらのことから、川岸から川に向かって矢を射る神事がこの場で執り行われたのではない かと想像できます。土器の特徴から1,150年ほど前、平安時代(9世紀中頃~後半)のことと考えています。
雁股鏃3点
出土状況(矢柄がついていた)
籠がいつごろのものかはっきりしませんが、川の堆積土の関係から平安時代~鎌倉時代後期の間につくられた ものと推定しています。もしかすると、籠を的として矢を射るという神事が行われたのではないかと夢想 してしまいます。まったく「的」外れの絵空事でしょうか。
第36号溝
六つ目籠出土状況
この36号溝跡のすぐ北側に幅15m程のやはり大きな溝跡が発見されました。36号溝跡の支流とも考えていますが、 この川岸からも墨で字の書いてある須恵器(墨書土器(ぼくしょどき)といいます)が並んだ状態で発見されました。「三田万呂」 と書かれたものが5個、「飯万呂」が1個です。調査区の外側や周囲にはもっと多くの土器が並べてあったと予想 できます。これらの土器は1,250年ほど前、奈良時代(8世紀中頃~後半)につくられたものです。「神矢」など の土器と同様、川岸に墨書土器(須恵器)を並べるという意味で共通することから、おそらく同じような神事(おまつり) が少なくとも100年間は継続したと考えることができます。
「三田万呂」墨書土器
墨書土器出土状況
現在でも関東地方以西の各地では、的に向かって矢を射る「オビシャ」「的射」などとよばれる神事が残っています。 その年の豊作祈願や吉凶を占う、あるいは魔よけ行事として行われる場合が多いといわれています。こうした 「オビシャ」の原型が発掘によって姿を現したのかもしれません。
いずれにしても神矢という墨書土器と祭祀用ともいえる雁股鏃がセットで発見された例は全国的にみても類例がなく、 しかも、矢を射るという具体的な行為まで類推できるという意味では非常に貴重な例といえるでしょう。
遺跡見学会を、下記の要領で開催しました。
日時 | 平成18年8月6日(日) |
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内容 | 昨年度、鉄剣や花瓶(けびょう)が発見されて話題になった反町遺跡で、水晶や碧玉(へきぎょく)の玉作り工房跡が見つかりました。 また、雁股鏃(かりまたぞく)と呼ばれる特殊な鏃(やじり)や的に使われたと思われる大きな籠のほか、「神矢」 と書かれた土器も見つかりました。 発掘体験や水晶探し(?)、特製クリアファイルの当たるクイズなど、楽しいイベントも用意しています! |
主催 | 埼玉県教育委員会 財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団 |
共催 |
東松山市教育委員会 |
当日は、猛暑の中午前・午後で計495名の方が遺跡を訪れました。 特に体験発掘は盛況で、炎天下にもかかわらず171名の方が元気に参加され、指先に触れる土器の感触に歓声をあげました。
見学会風景
見学会風景
体験発掘
勾玉づくり