【令和元年5月更新しました】
発掘調査は、4月に終了しました。
発見された遺構は、縄文時代中期の土器や石器を伴う遺物包含層(いぶつほうがんそう)と中世の掘立柱建物跡、井戸跡、溝跡です。これまでの発掘調査で、縄文時代中期の集落遺跡であることは分かっていました。今回は新たに、溝に囲まれた中世の掘立柱建物跡や井戸跡が発見されたことから、武士が住んでいた館跡の可能性もでてきました。
この地域は、鎌倉御家人畠山重忠(はたけやましげただ)の本拠地であり、荒川を挟んだ対岸には、畠山館跡や家臣の本田氏館跡が所在します。今回の調査によって、地域の歴史を考える上で重要な成果を得ることができました。
大型の遺構(掘立柱建物跡)は高所作業車で撮影しました。
調査区を北側から撮影した写真です。手前には縄文時代中期の遺物包含層が広がり、中央には中世の井戸跡、その奥に掘立柱建物跡や溝跡が見つかりました。
調査区の北側には、井戸跡が2基見つかりました。左側の第2号井戸跡からは13世紀後半の常滑焼片口鉢(とこなめやきかたぐちはち)の破片が出土しました。
調査区の中央には、複数の掘立柱建物跡が見つかりました。中でも、第1号掘立柱建物跡は、2間×7間の身舎(もや)に南側と東側に廂(ひさし)をもつ大きな建物跡です。
調査区の南端には、東西方向に走る溝跡が見つかりました。溝跡の規模は、幅1.8m、深さ0.3m、残存長10mです。